教会ニュース巻頭言

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ダルクマン神父追悼   “聖なる空間”という存在の人 2005年05月15日(日)

                                           藤 川 神 父
  私なんかが子供のころ、町でも村でも、至るところに“聖なる空間”が存在していました。わざわざ遠くに出かけて行かなくても、日常の身近なところに、つつましい神社やお寺があったり、山野に遊べば、ほこらがあったり、お地蔵さんが祀られていたりで、その“聖なる空間”を感じとって、ごく普通に生活していたものです。そうしたところには、“聖なる空間”であることをあらわす“しるし”として、鳥居が立ち、注連縄(しめなわ)や“注連”(しめ)の紙垂(しれ)が張られ、身を浄めるための手水所があったりで、子どもなりに、宗教心や畏敬の念が喚起され、育まれていたように思います。今は、すっかり“聖なる空間”が影をひそめて、ひっそりと存在したり、或いは、“聖なるもの”を圧倒する“俗なるもの”におおいかくされてしまっています。これでは宗教心も畏敬心もあったものではありません。

  ダルクマン神父様の存在というのは“聖なるもの” “聖なる空間”の“しるし”のような方ではなかったかと思うのです。ダルクマン神父様を鳥居や注連縄や手水所などにたとえると、きっと苦笑いなさることでしょう。
  ダルクマン神父様ほど、信仰と、その人生、人格がピッタリ融合し、統一された方に出会ったことはありません。或いは、こうも言えます。“職人技が、芸術化したような信仰の持ち主” 今はドラマや小説の世界にしか、その姿をとどめていないような数少ない職人の生き方、技のように頑固なまでに一徹で、自己に厳しく、安易に妥協せず、たえず完全への指向をもつ・・・・
まさに信仰の巨人であったように思います。
  そういう人が、私たちの日常から姿を消してしまい、私たちの信仰心、宗教心を啓蒙し、鼓舞し育んでくれる“しるし”がなくなったことは、残念で残念でしかたありません。きっと誰もが、たまらないほどの不在感、欠如感をかみしめていることでしょう。
 


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